堕落ディザイアー

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『ソーセージ・パーティー』はただ馬鹿にされていい低俗映画じゃない

ソーセージ・パーティー (吹替版)

ここ最近話題になっているアニメ映画『ソーセージ・パーティー』。R-15指定を受けるほどの下品な表現やグロテクスな描写が最大の特徴です。

 

その最低最悪としか言いようのない表現の数々のせいでこの映画の世間での評価は専ら「下品なバカ映画」というものですが、よく見るとこの作品には人生において大切なこと、現代社会を生きる上で大切なことが詰まっています。

 

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確かに庇いようもなく救いようもなくひっどい映画なんですが、その根底にはいくつもの重要なテーマがあるんです。今回はそれを見ていきます。

 

 

 

1.大量消費社会への皮肉

古来よりスーパーマーケットやショッピングセンターはアメリカ的大量消費社会の象徴としてエンタメの世界で描かれてきました。この『ソーセージ・パーティー』もスーパーを舞台に消費社会に皮肉をぶつける作品の一つです。

 

スーパーの広い店内に所狭しと並べられた食品たち。人間はその溢れる食べ物の山から好きな物を好きなだけ選びとって持ち帰ります。生きるのに必要な量を大幅に超えて、肥え太りながら娯楽として食らいます。特に肥満が社会問題化しているアメリカではそんな光景が容易に想像できるのではないでしょうか。

 

アニメのように食べ物たちが断末魔の叫びをあげながら噛み切られることはありませんが、食材になるまでに家畜は当然殺されているわけだし、穀物や野菜だって声をあげないだけで、人間に食べられるために死んでスーパーに来ているわけです。

 

そしてちょっと見栄えが悪くなったものは「まだ新鮮だよ!」と訴えながらゴミ箱へ容赦なく放り込まれていきます。廃棄チェックをするスーパーの店員は悪魔神扱いされていましたね。

 

苦しみながらグロテスクに切り刻まれて皮を剥がれるキャラクターたちは、必要以上に人間に食い散らかされて犠牲になる食べ物の叫びを表しているようにも思えました。

 

2.限界を決めず一歩踏み出す勇気

物語の後半でスーパーの食べ物たちは、神(買い物客)に選ばれて外へと旅立っていった仲間たちの末路を知ります。自分たちは神に食い殺されるために連れて行かれるのだと知ってしまいます。

 

ところが「食われるだけの運命に立ち向かおう、戦おう」と訴える主人公に対してほとんどの食べ物たちは 「神に勝てるわけがない」とはなから諦めた姿勢を見せます。それどころか「神が自分たちを食べるなんて何かの間違いだ。嘘だ」と現実逃避すらしてしまいます。

 

怖じ気づいた食べ物たちは確かに見えていた答えを無視します。自分たちの限界はここだ、と決めてしまうことで彼らは一度は生きるチャンスを投げ出してしまうんです。しかし最後には皆で立ち向かい、遂には神である人間を倒してしまいます。

 

たとえ明らかな可能性が目の前に置かれても、一歩目を踏み出さなければ絶対にそのチャンスを掴むことはできません。必ず最初の一歩目を踏み出す勇気が必要なんです。『ソーセージ・パーティー』のキャラクターたちはそんな当たり前の事実を改めて僕たちに教えてくれます。

 

 

3.グローバル社会が抱える問題

前述した2つのテーマが本作の主題でしょうが、国際社会、アメリカ的多民族社会の問題を皮肉に描写しているのもこの映画の面白いポイントだと思いました。

 

中東の食べ物であるラヴァシュとヨーロッパ発祥のベーグルが常に人種ネタの悪口を言い合いながら喧嘩しているのがどうみても現代社会の風刺でした。作中でさらりと放たれた「こんな広い店内(=世界)なんだから離れて暮らせばいいのに」という真理をついた言葉が印象に残っています。

 

中華食材たちがチャイナタウンを形成していたりと民族に由来するネタが細かく丁寧に挟まれているのもいちいち笑えます。

 

 

 

まとめ

というわけで、今年最大のおバカ映画『ソーセージ・パーティー』をクソ真面目に考察してみました。半ばネタとして思いつきましたが、こうして書いてみるとあながち冗談でもなく真面目なテーマが散りばめられているように思います。ブラックなジョークが大人向けなだけで、やってることは『トイ・ストーリー』シリーズなんかとあんまり変わらないんじゃないでしょうか?

 

そんな意外と深いテーマが見え隠れする大人向けアニメ映画な本作。下ネタやちょいグロな描写に耐えられる人は真面目な視点からも是非一度観てみてください。